ないものねだり

だって、ないんだもの

聞こえない心音

あの人の声を聞きたくないから、顔を見たくないから、それが聞こえないように大きな音で耳を塞ぎ、煌びやかな光で目を瞑り、脳を騙し続けた。いつに間にか、自分が見たかったものも、届きたかったものも、遠く遠くに行ってしまった。

あの時と一緒だ。あの時は悔しさと苦しみが私の中の奥深くへ私を連れて行ってくれた。

だから、今回もあの悔しさを思い出せば、あの苦しさに苛めば、深く潜って、私の世界に集中できると勘違いしていた。

ただ、本当に必要だったのは、静寂だった。

耳にはイヤホンもない。目の前にはパソコンもケータイもない。本もない。

ただ、床に横になる。私は自分の意識を呼吸に向ける。

「ふんーふんー」

鼻から空気が行き来する。舌を喉の方へ下げると

「こぅおーこぅおー」

と唸る。

「うぐんうぐん、うぐんうぐん」

ちくちくと痛む肋骨の下で、梅雨知らずな顔で心臓が動いている。

「ふんーふんー」

やっぱり鼻息の方がうるさい。

ばぅわぁあーん

外で、車が走る。

何十年かぶりに思い出した。あの頃、私の家族は、川の字で寝ていた。頭の方に窓があって、そこからいつも色々な音が聞こえた。

ぷっぅぷっぅぷぅわーん

これは暴走族。

ピピーピピ、ピピピピピピー、、、ピピピ

これは石焼き芋

そういえば、私のひとり遊びの全盛期はこの頃だった。自分が見たいものを妄想ばかりして、足りない知識で世界を作る。いつか必ず、自分の目の前で、自分の手で私の世界を創造するんだ。そう思っていたあの頃。今はそれを叶える機会はあるのに、足が動かない。どこに行けばいいか分からない。

「ふんーふんー」

心臓って、

「うぐんうぐん」

ってならないよね?あれってなんの音?

 

溢れるリズムをこぼさないで

グツグツ、どんつつつどんつつつ、グツどんつつグツ

 

沸騰する鍋を横目にスピーカーからはその人のおすすめだという曲がかかっている。

「このビートいいね」

音楽のリズムに身を任せながら揺れてみる。

「いいでしょ、今のパートは21savageっていうの」

「前にお勧めしてくれた」

「そうそう。あ、でも、このパートは誰か分からない」

21savageからほかのラッパーに変わったタイミングで、彼女はそういった。

 

グツ、どんつつつどんつつつ、グツグツ

 

二人は互いをなぞる。リズムをこぼさない様に、逃がさない様に。

 

どんつつつどんつつつどんつつつ

 

ビートははすでに変わっている

 

グツグツ

 

 

朝顔

白みがかった暗闇の中で目が覚めた。横から感じる緩やかな体温に導かれる様に首を回すと、その人は寝ていた。

 

白黒の世界でその顔を目でなぞっていると、水色の目が地平線から昇った。いつの間にか周りは淡い空色に満ち始めていく。その人の髪は淡い橙色が沁みていた。

純化の一滴

私が研究する理由。それは、あの一滴を味わうためである。

 

自然の多くの側面や事柄を凝縮に凝縮を繰り返し、純化純化を繰り返し、残った最後の一滴。これを味わう為だけに私は日々を生きている。それを味わいたい高揚感、期待感。それだけが私を突き動かす。

たった一滴のはずなのに、どんなに大きなお皿に盛ってもあふれでる。私を深く、厚く、熱く満たしてくれる唯一至高の一品。

 

我々、研究者はこの一滴の精製法を自ら作り上げ、効率化する。上手くいったら、他の研究者にも、その一滴とその精製方法を分けてあげる。こうして我々は、常に究極の一滴を求め、分け合い、自然を深くゆっくり味わうのである。

 

これは私の持論である。

世の中のある人達は言う。なんだそれは。美味しいのか?私の役に立つのか?役に立たないならば、いらない。どうしても共有したいなら、我々のために席を準備し、その一滴を存分に振る舞うが良い。そういう輩がこの世には多くいる。そして多くの場合、その人の舌に合わなければ、

「なんだ、美味しくないじゃないか」

と言う。

 

「まあ、落ち着きなさい。」

と、私は言うであろう。何かを感じることには理由がある。美味しいと感じること。苦いと感じること。面白いと感じること。つまらないと感じること。美しいと感じること。感性は人それぞれであるが、そう感じる様になった経緯は必ず存在する。多くの場合は、それぞれが幼少期から「周囲」が美味しいと言って食べていたものを「美味しい」と認識することが多いと思う。だからといって、「美味しい」の定義を幼少期からの、または「周囲」の「美味しい」で固めるのは、あまりに器が小さい。そんな小さな器にどんな食材が盛れるだろうか。

感性は揺れ動く。出会いや経験によって、感性のあり様は如何様にも変化しうる。だが、その揺らぐ感性を注視すると、どんなに荒ぶれた揺れにも動じない部分が見えてくる時がある。その姿形を明らかにすることが、「私」の感性を抽出することになり、それが「私」を構成する必須成分になる。「自分を持つ」と言うことは、この成分表示を完成させることにある。そして、この成分だけがあなたを真に満たすことが出来る。

 

落ち着きのない輩は、まず、「自分」の成分表示すら持ってないものが多い。持っていないので、どうやって決めたらいいか分からず、なんとなくで決める。彼らには何が美味しいか美味しくないかを評価する方法の例を一つでも教えてあげるといいかもしれない。

ただ、「周囲」が作り上げた見せかけの成分表示が真の成分表示だと思いこんでいる頑固なタイプの輩は、向き合うのが、少々、いや、かなり難しい。なぜなら、真の成分表示だと思いこんでいる「周囲」が作った成分表示が、全宇宙の全ての人の成分表示だと信じて疑わないからである。

誰かが例えば美味しさを感じている時、そこには必ず何をもって美味しいか、と言う問いへの答えがある。その美味しさへの感性が自分の中になくても問題はない。また、それを美味しくないという感性をすでに持っていても問題は全くない。一番重要なのは、多様性を認め、自らの感性を開放的に、能動的に揺らがせることが大事である。

揺らせるだけ揺らした上で抽出する「私」の感性は、より鋭く敏感になっている。この鋭敏な感性こそが、あの凝縮され、純化された一滴を最高の一品に昇華させる。

 

この工程を理解しようとしない人たちは、残念ながら一定数いる。美味しさが分からないのに高級料理店に訪れ、フルコースを平らげたとて、舌鼓は心地よく響かない。そして、それを店やシェフのせいにする。

研究でも同じことだ。そういう人たちは私に「「常識」の範疇で分かるように教えてくれ。それを逸脱したものは分からない。お前の説明が下手だ。」となる。その小さな器と鈍感な感性で何に触れ、味わおうと言うのだ。

 

もちろん、自らの感性を育てる工程に普遍的な方法は無いが、その重要性に気付ければ、誰にでも出来ることであると、私は考えているし、むしろ、その人自身にしか出来ない事である。では、なぜ頑固な人たちが世の中にいるのか。それは、この事に気づいていないという事とやり方が一切わからないからということの可能性が考えられる。

 

本来、教育というのは自らの感性を育てる絶好の機会ではないかと思う。算数、国語、英語、道徳の何を教えたって構わない。ただ、それらを通じて、一家庭では得られない揺らぎを子供達に与え、「感性」の存在を気づかせ、それを揺らし、磨き、抽出する方法を教える事が教育の役割では無いのか。最も大事なこととして、その抽出した感性で、各個人が「自分」の「美しい」を体感し、それに味をしめることが大事だ。その上で、自分の「好き」が分かり、さらに「好きなように生きていく」を理解するのだと思う。それらをすっ飛ばすと、目先の「周囲」が作り上げた「楽しい」ことや「美しい」ことにうつつ抜かし、なんだか満たされない人生を送るようになる。

あるべき姿の教育が無いのは、教育のシステムにあると思う。まず、教員はどこまで自分の感性を磨き上げたのか。純化の一滴を味わったことがあるのか。それが出来なければ、どんなに何を教えようとも、何にも響かない。食べたことがない料理の食レポほど、滑稽なものはないだろう。

だからといって、教員だけが悪いのか。もちろんそうではない。私は教育のシステムに問題があるといった。教員はシステムのうちの一部分にすぎない。あの一滴を味わったことがあるような教員、あの一滴を味わえる教員、あの一滴を味わおうとする教員を育てたり、集めたりするのもシステムの一環である。何故、このような重要な役回りが、特にこの日本では低く見定められているのか。

 

偉そうなことを言いながら、私には具体的な方策もないし、どうしたらいいかも分からない。ただ、昨今では多くのメディアとメディアリテラシーの発達によって、「感性の共有」が可能になってきており、「感性を持つ」ということは普及し始めている気がする。また、多様な感性に容易に触れられる事によって、知らない内に自分の感性は揺らされている。これは良いことでもあるが、これらが「知らない内」に起こっている分、簡単に「周囲」の感性を「自分」の感性と混同しやすい。これは次なる課題であるが、まぁ良いだろう。少しずつ世界が変わっていきながら、私も私ができる事をしようと思う。

 

そう妄想をしながら、目の前の計算に舌鼓を打つ。

 

 

 

天才と呼ばれなくても

天才かどうかはどうでも良くなった。

 

その形に触れられれば。

 

たとえ、光を通して見えるものがなくても、言語を通して見える世界が私の眼前にはいつでも広がっている。ただ、それは全てが鮮明に見えているわけではない。あるところは、鮮明にくっきり見えているが、大部分は霧に覆われているように靄がかかっている。その靄は、一旦晴らしたとて、そのさらに奥には更なる靄が深く深く続いているように見える。ただ、よくよく見てみれば、それは靄でも何でもない。白紙に書かれた絵のある部分から先が徐々に掠れて消えていて、存在しないのである。その先を描き出すには、更なる歩みを必要とする。

 

歩みを進めていく上で、私は絵の続きを私の手で描いていく。それが合っているのか、間違っているのか分からない。ただ、大事なことはそれが許される線かどうかである。だから、人によって異なる続きの絵があっても、満たすべき条件の範囲内である限り、誰の絵が間違っていて、誰の絵が正しいかは関係ない。なんでも良いのだ。

 

ただ、何が許されるかどうかは、一体、誰が何がどの様に決めているのか、誰も分からないと思う。

 

本当の意味で自由であるには、どうしたらいいのか。自由に描き狂っていたあいつは天才だった。ただ、天才に見えていた自由なあいつも、私が勝手に天才に仕立て上げていたのかもしれない。私の理想の一側面をあいつの一側面に重ね合わし、勝手に憧れていたのかもしれない。

 

私は天才にはなれない。それでもいい。それがいい。天才などという得体の知れない存在に祭り上げられるのなんか、まっぴらごめんだ。

 

私が自由でさえあれば。

お一人様

「新鮮なエビとホタテを存分に使ったクリームパスタになります」

皺一つないスーツを身に纏った給仕が上品に料理を私の目の前に置いた。

「ありがとうございます」

料理に無邪気に目を輝かせているのを隠しながら、小さくお礼をいった。

「それでは、お楽しみください」

 

一人で料理を食べるのはとても楽しい。まるで小説の主人公になった気分だ。

 

この誰もいない星で、私はお一人様である。