ないものねだり

だって、ないんだもの

天才と呼ばれなくても

天才かどうかはどうでも良くなった。

 

その形に触れられれば。

 

たとえ、光を通して見えるものがなくても、言語を通して見える世界が私の眼前にはいつでも広がっている。ただ、それは全てが鮮明に見えているわけではない。あるところは、鮮明にくっきり見えているが、大部分は霧に覆われているように靄がかかっている。その靄は、一旦晴らしたとて、そのさらに奥には更なる靄が深く深く続いているように見える。ただ、よくよく見てみれば、それは靄でも何でもない。白紙に書かれた絵のある部分から先が徐々に掠れて消えていて、存在しないのである。その先を描き出すには、更なる歩みを必要とする。

 

歩みを進めていく上で、私は絵の続きを私の手で描いていく。それが合っているのか、間違っているのか分からない。ただ、大事なことはそれが許される線かどうかである。だから、人によって異なる続きの絵があっても、満たすべき条件の範囲内である限り、誰の絵が間違っていて、誰の絵が正しいかは関係ない。なんでも良いのだ。

 

ただ、何が許されるかどうかは、一体、誰が何がどの様に決めているのか、誰も分からないと思う。

 

本当の意味で自由であるには、どうしたらいいのか。自由に描き狂っていたあいつは天才だった。ただ、天才に見えていた自由なあいつも、私が勝手に天才に仕立て上げていたのかもしれない。私の理想の一側面をあいつの一側面に重ね合わし、勝手に憧れていたのかもしれない。

 

私は天才にはなれない。それでもいい。それがいい。天才などという得体の知れない存在に祭り上げられるのなんか、まっぴらごめんだ。

 

私が自由でさえあれば。