ないものねだり

だって、ないんだもの

純化の一滴

私が研究する理由。それは、あの一滴を味わうためである。

 

自然の多くの側面や事柄を凝縮に凝縮を繰り返し、純化純化を繰り返し、残った最後の一滴。これを味わう為だけに私は日々を生きている。それを味わいたい高揚感、期待感。それだけが私を突き動かす。

たった一滴のはずなのに、どんなに大きなお皿に盛ってもあふれでる。私を深く、厚く、熱く満たしてくれる唯一至高の一品。

 

我々、研究者はこの一滴の精製法を自ら作り上げ、効率化する。上手くいったら、他の研究者にも、その一滴とその精製方法を分けてあげる。こうして我々は、常に究極の一滴を求め、分け合い、自然を深くゆっくり味わうのである。

 

これは私の持論である。

世の中のある人達は言う。なんだそれは。美味しいのか?私の役に立つのか?役に立たないならば、いらない。どうしても共有したいなら、我々のために席を準備し、その一滴を存分に振る舞うが良い。そういう輩がこの世には多くいる。そして多くの場合、その人の舌に合わなければ、

「なんだ、美味しくないじゃないか」

と言う。

 

「まあ、落ち着きなさい。」

と、私は言うであろう。何かを感じることには理由がある。美味しいと感じること。苦いと感じること。面白いと感じること。つまらないと感じること。美しいと感じること。感性は人それぞれであるが、そう感じる様になった経緯は必ず存在する。多くの場合は、それぞれが幼少期から「周囲」が美味しいと言って食べていたものを「美味しい」と認識することが多いと思う。だからといって、「美味しい」の定義を幼少期からの、または「周囲」の「美味しい」で固めるのは、あまりに器が小さい。そんな小さな器にどんな食材が盛れるだろうか。

感性は揺れ動く。出会いや経験によって、感性のあり様は如何様にも変化しうる。だが、その揺らぐ感性を注視すると、どんなに荒ぶれた揺れにも動じない部分が見えてくる時がある。その姿形を明らかにすることが、「私」の感性を抽出することになり、それが「私」を構成する必須成分になる。「自分を持つ」と言うことは、この成分表示を完成させることにある。そして、この成分だけがあなたを真に満たすことが出来る。

 

落ち着きのない輩は、まず、「自分」の成分表示すら持ってないものが多い。持っていないので、どうやって決めたらいいか分からず、なんとなくで決める。彼らには何が美味しいか美味しくないかを評価する方法の例を一つでも教えてあげるといいかもしれない。

ただ、「周囲」が作り上げた見せかけの成分表示が真の成分表示だと思いこんでいる頑固なタイプの輩は、向き合うのが、少々、いや、かなり難しい。なぜなら、真の成分表示だと思いこんでいる「周囲」が作った成分表示が、全宇宙の全ての人の成分表示だと信じて疑わないからである。

誰かが例えば美味しさを感じている時、そこには必ず何をもって美味しいか、と言う問いへの答えがある。その美味しさへの感性が自分の中になくても問題はない。また、それを美味しくないという感性をすでに持っていても問題は全くない。一番重要なのは、多様性を認め、自らの感性を開放的に、能動的に揺らがせることが大事である。

揺らせるだけ揺らした上で抽出する「私」の感性は、より鋭く敏感になっている。この鋭敏な感性こそが、あの凝縮され、純化された一滴を最高の一品に昇華させる。

 

この工程を理解しようとしない人たちは、残念ながら一定数いる。美味しさが分からないのに高級料理店に訪れ、フルコースを平らげたとて、舌鼓は心地よく響かない。そして、それを店やシェフのせいにする。

研究でも同じことだ。そういう人たちは私に「「常識」の範疇で分かるように教えてくれ。それを逸脱したものは分からない。お前の説明が下手だ。」となる。その小さな器と鈍感な感性で何に触れ、味わおうと言うのだ。

 

もちろん、自らの感性を育てる工程に普遍的な方法は無いが、その重要性に気付ければ、誰にでも出来ることであると、私は考えているし、むしろ、その人自身にしか出来ない事である。では、なぜ頑固な人たちが世の中にいるのか。それは、この事に気づいていないという事とやり方が一切わからないからということの可能性が考えられる。

 

本来、教育というのは自らの感性を育てる絶好の機会ではないかと思う。算数、国語、英語、道徳の何を教えたって構わない。ただ、それらを通じて、一家庭では得られない揺らぎを子供達に与え、「感性」の存在を気づかせ、それを揺らし、磨き、抽出する方法を教える事が教育の役割では無いのか。最も大事なこととして、その抽出した感性で、各個人が「自分」の「美しい」を体感し、それに味をしめることが大事だ。その上で、自分の「好き」が分かり、さらに「好きなように生きていく」を理解するのだと思う。それらをすっ飛ばすと、目先の「周囲」が作り上げた「楽しい」ことや「美しい」ことにうつつ抜かし、なんだか満たされない人生を送るようになる。

あるべき姿の教育が無いのは、教育のシステムにあると思う。まず、教員はどこまで自分の感性を磨き上げたのか。純化の一滴を味わったことがあるのか。それが出来なければ、どんなに何を教えようとも、何にも響かない。食べたことがない料理の食レポほど、滑稽なものはないだろう。

だからといって、教員だけが悪いのか。もちろんそうではない。私は教育のシステムに問題があるといった。教員はシステムのうちの一部分にすぎない。あの一滴を味わったことがあるような教員、あの一滴を味わえる教員、あの一滴を味わおうとする教員を育てたり、集めたりするのもシステムの一環である。何故、このような重要な役回りが、特にこの日本では低く見定められているのか。

 

偉そうなことを言いながら、私には具体的な方策もないし、どうしたらいいかも分からない。ただ、昨今では多くのメディアとメディアリテラシーの発達によって、「感性の共有」が可能になってきており、「感性を持つ」ということは普及し始めている気がする。また、多様な感性に容易に触れられる事によって、知らない内に自分の感性は揺らされている。これは良いことでもあるが、これらが「知らない内」に起こっている分、簡単に「周囲」の感性を「自分」の感性と混同しやすい。これは次なる課題であるが、まぁ良いだろう。少しずつ世界が変わっていきながら、私も私ができる事をしようと思う。

 

そう妄想をしながら、目の前の計算に舌鼓を打つ。