ないものねだり

だって、ないんだもの

大人の階段

世の中には面倒くさい事がたくさんある。それは明らかに私がやりたくない事だ。しかし、私がやらなくてはいけない。だから面倒くさい。

 

それらは面倒くさいから、ついつい引き延ばしにしてしまう。でも、これは最悪の手だ。面倒くさいことを引き伸ばすと、それらとそれらに関する一切合切を諦めない限り、それらに付随する事項が次から次へと増えていき、一生かかっても消化仕切れないものになる。だから、面倒くさい事はさっさと終わらせて、それ以上は「エンガチョ」がおすすめである。そうやって、自分の好きなもの、自分がやっていたい事、自分に必要な事だけを人生の中で厳選していくのである。つまり自分で自分の段を一個一個選び抜き、積み上げていくのである。たまに、選択を間違えてしまうかもしれない。それでもいいのだ。間違えられる時に間違えておかないと、ここぞという時に間違えてしまう。仮にそうなったとしても、何も問題ではないけれども。なぜなら、転げ落ちた所までに積み上げた階段の登り方を私は知っているから。

 

間違いを犯したと思ったら、「自分」が正しいと思う様に段を積み直せばいい。たまに、お節介がこれでもかと彼らの段のコピーを私の階段に挟んでくる。どんな段かは一応見てみるが、絶対に人に自分の段を積ませてはいけない。いつか何か起きた時に、容易にその段の所為にしてしまうから。それに、その段と他の段の相性が悪かったら、どんなに優れた段でもそれより上に積み上げた段の崩壊に繋がりかねない。だから、絶対に自分の階段は自分で段を積み上げるのだ。そうやって、私は私だけの階段を積み上げ、私だけの場所へ歩いていくのだ。誰にも私の私をいじくらせない。こうして、私は誰にも邪魔されない、私だけの場所へと続く階段を作る事ができる。

 

「大人の階段を登る」と、人はよく言う。自分が登る大人の階段など、前もって存在などしない。大人の階段は自分で積んでいくのだから、自分が登る「大人の階段」がすでに存在するなどあってはならない。もし、その「大人の階段」を登っているのだとしたら、今すぐにでも引き返した方が良い。その階段は、常に色や形を変えて、動き回っているだろう。そんな階段を登っているのでは、いつしか目を回し、そのまま最下層に落ちて、落下死してしまう。確かに、「大人の階段」は下から見たらカラフルで、魅力的で、一見、遊園地のアトラクションの様な高揚感を感じるだろう。ただ、それは全て見せかけである。誰も、そこから落ちたあなたを助けてはくれない。というよりも、そのカラフルな装飾で目が眩み、落ちた先は見えていないのであろう。だから、あなたはあなただけの階段を積み上げるのだ。高くてもいい。低くてもいい。黄色でも、黒色でも、白色でもいい。たまに、ある人と階段を見せ合いっこしてもいいだろう。お互いの階段の積み上げ方に助言を言い合うのもいいだろう。やはり、大事な点はお節介になりすぎない事だ。あくまで、助言だけ。積むのは彼らにやらせるべきだ。また、とても難しい事だが、お互いの段を共有する事も良いかもしれない。そんな人を見つけたら、大事にするといいと思う。

 

そうしていく内に、私たちは大人になっていくのだろう。